日本人に当事者意識はあるのか
2011.05.08 Sunday
今日(2011年5月8日)付の日本経済新聞を見ていて、非常に興味深い記事があった。一部引用する。
「新しい日本へ 第1部 危機からの再出発 6」より
そういう少ない知識からでも、日本ではこういう復興事業の際にとても苦労していたのは、十分分かった。震災復興に比べるとあまり話題にのぼらないが、戦後の復興も中途半端だった。規模は震災復興より小さく、変更も多かった。
久々に、日本国憲法を読んでみた。
確かに国家が過剰に制限するのは問題だが、国民が自由や権利ばかりを主張して、公共の福祉を考えないのも、同じように問題だと感じる。
過剰な消費者至上はメーカー撤退を招く(WEDGE infinity)に、次のような文章がある。
中世ヨーロッパの都市で、ギルド(同職組合)は自分たちの地位を守るために、厳しい品質基準を設けた。違反した場合の罰則は大変厳しかったという。先ほどの欧州のメーカーについての文章を読んだときに、私は即座に「現代に生きる中世市民意識」に書かれていた話と根本が同じだ、と感じた。
今の日本では、自由や権利を手に入れるために、自分たちに厳しい基準を設けているだろうか、と感じる。これは、私自身も蚊帳の外ではなく、当事者である。自由や権利は滝を落ちる水のように勝手にやってくるものではなく、自分たちの努力なしでは得られないものだという意識が、私たちには欠けているのではないだろうか。日本国憲法にも、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」とある。
では、日本ではそういう「市民意識(共同体の構成員としての意識)」はなかったのか? となると、私自身はきちんと参考となる本を読んだというわけではないので、断言できない。だが、江戸などの大都市もあったのだから、自分たちの地位を守り、余計な摩擦を減らすためのルールは、それなりにあったのではないかと思っている。
最後に、再度日本経済新聞の記事に戻る。
誰かが自分たちに都合の良い・居心地の良い場所を準備して与えてくれる、などという虫のいい話はない。自分自身で、自分たちの住む共同体・自治体・国のあるべき姿を思い描き、それを実現するためにどう行動すればいいかを考え、議論し、実現させなければならない。そして、それには痛みをともなうこともあるという覚悟も必要だ。
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「新しい日本へ 第1部 危機からの再出発 6」より
「公共の利益」を優先させれば壁にぶつかる。関東大震災後に帝都復興院総裁を務めた後藤新平も、都市再生のための私有地提供への反発に悩んだ。戦後も道路や空港など経済活性化のインフラ整備は実現まで長い時間がかかっている。大学の卒論で、「日本とドイツの都市政策比較」を扱った。実は卒論が必修の学部学科ではなかったので、実態としては「レポートが長くなったもの」レベルだったろうと思う。そもそもドイツに関する資料が少なかったり、外国語の資料にあたっていなかったりと、突っ込みどころが多い。
そういう少ない知識からでも、日本ではこういう復興事業の際にとても苦労していたのは、十分分かった。震災復興に比べるとあまり話題にのぼらないが、戦後の復興も中途半端だった。規模は震災復興より小さく、変更も多かった。
政府の復興構想会議で委員を務める河野龍太郎(46、BNPパリバ証券)は話す。「日本は私権制限の議論をはばかってきたために、インフラ整備が進まず、望ましい改革も遅れ、得るべき利益を失った。日本全体にどんな損失があるか、正面から向き合うべき時だ」最初の引用で後藤新平も苦労したと記事に書いてあるとおり、戦前からこういう風潮はあった。私が読んでいた本では、震災復興でも戦後の復興でも、政治家(議員や知事)が選挙民のご機嫌とりで復興事業に反対することが多かった、と書かれている。結局、「公共の福祉のために、どこまで自由や権利を引っ込めるか」が重要で、日本ではあまり引っ込めなかったのだ。
(中略)
生存権や表現の自由など基本的人権を尊重するのが民主主義だ。日本は戦前の軍国主義の反省もあって、とりわけ個人の権利を大切に扱ってきた。ただ、ややもすると、一人の反対で前に進めなくなる袋小路に陥っていたのも事実だ。
久々に、日本国憲法を読んでみた。
〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕 第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。私の理解が間違っていなければ、「国民は」「常に公共の福祉のために」「この憲法が国民に保障する自由及び権利」を「利用する責任を負」う、ということだ。
確かに国家が過剰に制限するのは問題だが、国民が自由や権利ばかりを主張して、公共の福祉を考えないのも、同じように問題だと感じる。
過剰な消費者至上はメーカー撤退を招く(WEDGE infinity)に、次のような文章がある。
この3月に、欧州委員会のなかの日本の消費者庁にあたる部署の責任者にインタビューしました。欧州は日本と異なり、メーカーが製品を作るにあたって、とても厳しい規格(スタンダード)を設けています。私は、この規格は日本のように消費者からきた要望やクレームを反映させていった結果なのかと思っていたのですが、聞いてみるとそうではない。欧州では、27カ国の代表者が三人ずつ集まり、メーカーのバックアップのもと、議論して規格を決めているのです。そこで「こうしなければならない」と、トップダウンで決めていきます。唐突だが、私の20年来の愛読書、阿部謹也『中世の星の下で』(1986年、筑摩書房)に、「現代に生きる中世市民意識」という文章がある。この文章は、卒論を書くときの参考文献にも入れた。都市の姿の違いは何から生まれたのだろうと思って卒論を書こうと思ったのだが、参考文献を読んでいるうちに、結局は「市民意識の差」だと実感した。「市民意識の差をテーマに卒論を書きたかった」と思ったほどだ。
(中略)
欧州がそうするのは、域内のメーカーや市場を守るため。もし規格がゆるければ、メーカーが「うちの製品はこんなに厳しい規格を満たしているものだから、安全・安心なものです」と言えなくなるし、市場のほうも、中国等から低価格低品質の商品がどんどん入ってきてしまう。欧州はそうならないように、高い壁をキープしてきました。
中世ヨーロッパの都市で、ギルド(同職組合)は自分たちの地位を守るために、厳しい品質基準を設けた。違反した場合の罰則は大変厳しかったという。先ほどの欧州のメーカーについての文章を読んだときに、私は即座に「現代に生きる中世市民意識」に書かれていた話と根本が同じだ、と感じた。
今の日本では、自由や権利を手に入れるために、自分たちに厳しい基準を設けているだろうか、と感じる。これは、私自身も蚊帳の外ではなく、当事者である。自由や権利は滝を落ちる水のように勝手にやってくるものではなく、自分たちの努力なしでは得られないものだという意識が、私たちには欠けているのではないだろうか。日本国憲法にも、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」とある。
では、日本ではそういう「市民意識(共同体の構成員としての意識)」はなかったのか? となると、私自身はきちんと参考となる本を読んだというわけではないので、断言できない。だが、江戸などの大都市もあったのだから、自分たちの地位を守り、余計な摩擦を減らすためのルールは、それなりにあったのではないかと思っている。
最後に、再度日本経済新聞の記事に戻る。
「優しい政治」「国民目線」といった言葉だけではない。臆せず難題と向き合い、真正面から解を探す。民主主義の強さが試される。私たち「庶民」も、「政治家が悪い」「官僚が悪い」と言うばかりではだめで、問題を直視しなければならない。
誰かが自分たちに都合の良い・居心地の良い場所を準備して与えてくれる、などという虫のいい話はない。自分自身で、自分たちの住む共同体・自治体・国のあるべき姿を思い描き、それを実現するためにどう行動すればいいかを考え、議論し、実現させなければならない。そして、それには痛みをともなうこともあるという覚悟も必要だ。
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